幼少時 父を失い、安政二年 浜田姓から郷士 那須俊平の養子となる。
剣・槍・砲の武術に優れ、義父の影響か 共に国事に尽力するようになる。
その父共々、坂本龍馬(文久二年三月)の脱藩の為の青写真を作った影の立役者でもある。
しかしながら、土佐勤王党に加盟後から刺客の一人となり、
文久二年四月八日、吉田東洋暗殺後、長州へ脱走。
翌三年八月、吉村虎太郎らの天誅組・大和義挙に加わり、軍監となるが、
九月鷲家口の戦いで戦死。
これにより、天誅組は壊滅となる。
わずか四十日ほどの挙兵で、他の同士同様
草の根から大きく伸びることの出来なかった若木達ではあったが、
彼等の地に張り付いた奔走こそが、後に育つ大樹の貴重な養分となっていった。