斎藤 一

(1844〜1915)



山口一〜斎藤一〜山口次郎〜一戸伝八〜藤田五郎
この5つの名前の変遷には、時代が生き物のように唸り、
音を立てて渦巻いていた幕末の真っ只中を駆け、生きて生きて生き抜き、
新しい時代を見詰めて死んでいった一人の男の人生が凝縮されている。

変名・改名が志士達にとって身を守る上で当然のこととして用いられていた当時、
彼の場合は同時進行での使い分けはせず、まるで脱皮をするかの如く
ひとつの名を脱ぎ捨てていった。

新選組副長助勤、3番および4番隊組長、また隊の剣術指南など
剣と共に生まれ落ちた男は隊きっての剣豪の一人として活躍し、
”突きの斎藤”として、まさに現在に名を残すこととなる。

新選組というものの存在を二つの時代に分けてみたとき、
鳥羽伏見を境として、前半・そして その後を後半期とするならば、
斎藤一を語るには、華々しい前半よりもあえて
後半に彼の真の彼らしさを感じずにいられない。

時勢も刻々と変わり、近藤勇も既に亡く、土方歳三は旧幕府軍全軍の指揮官として
最後の戦いのため北へ北へと向かってゆく中、斎藤はその後の
新選組隊長として会津兵と共に白河口で新政府軍を迎撃、そして残った
12人の同士と共に、会津を守らんがため、この地にとどまるのである。
そして終戦・・・
新選組の蒙った会津への恩義の為に・・・
斎藤はただひとりでそれを返したように思う。
維新後、旧会津藩士として生きた斎藤は、明治9年(1876)
新政府警視局(庁)の警部補となり、翌10年西南戦争では、豊後口微募警視隊員
として出征(写真はその時のものである)、明治24年(1891)に警視庁退官後には、
東京教育博物館看守、女子高等師範学校書記などを勤める。
仲間を殺され、あれだけ敵として戦い憎んだ新政府の下に身を委ねることの
胸中に去来したものは何であっただろうか。しかし、多くの犠牲となった
同志の血と涙の上に成り立った新しい世の中である・・・それを守ってゆくことこそ、
生き残った彼の使命感であった、たとえ世は変わろうと、新選組を愛し、誇りとして
死ぬまで隊士として生き続けた男であった。
奇しくも同じ大正4年(1915)に亡くなった永倉新八と唯一結成当時からの
このふたりが生き永らえて新しい時代を見留てくれたことが何よりの救いである。




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