坂本龍馬と新選組


7月5日に東京龍馬会主催で「坂本龍馬と新選組」という菊地明さんによる講演会がありました。
他にも宮地佐一郎さん、龍馬姉の千鶴の子孫、土居晴夫さんが来ていました。
会場でもらった資料のほんの一部ですが載せます。また近いうちに書き足していきます。

慶応元年四月五日、龍馬上京して藩邸に入り、
同志土方楠左衛門に邂逅して国事の日に非なるを痛嘆す。
この日、龍馬は同志高松太郎、千屋寅之助等を従えて嵐山に遊び帰途、
たまたま会津藩士の武装して巡邏するに会う。
龍馬、高松を顧みて曰く、君果たしてこれを横断するの勇気ありやと。
高松瞠目して一語なし。龍馬突如として路傍の子犬を抱き、
余念なげにこれに頬摺りしつつ、歩を会士の中央に運ぶ。
会士喫驚して覚えず途を開く。龍馬悠々としてこれを横ぎり、
高松、千屋等辛うじて龍馬に次げり。

(千頭清臣『坂本龍馬』大正三年刊)


去年六月、※1望月らが死し時、同志の者八人ばかりも皆、
望月がごとく※2戦死したりし。そのまえ、この者ら今の
母※3娘が大仏辺に養い隠し、女二人して飯炊きしてありしが、
その騒ぎの時、家の道具も皆、捕り手の人数が車に摘み取り
帰りたれば、今はたつきもなく、自分は母と知定院という亡父が
寺に行き、養われてありし。
日々、食うや食わずに実に哀れなる暮らしなり。

(慶応元年九月九日付乙女・おやべ宛龍馬書簡)


4伏見でいた時分、夏の事で暑いから、一晩龍馬と二人で
ぶらぶら涼みがてら散歩に出掛けまして、
だんだん夜が更けたから話ももって帰って来る途中、
五・六人の新選組と出逢いました。
夜だからまさか坂本とは知らぬのでしょうが、
浪人と見れば何でも彼でも叩き斬るという奴等ですから、
わざと私等に突き当たって喧嘩を仕掛けたのです。
すると龍馬はプイとどこへ行ったのか分からなくなったので、
私は困ったが、ここぞ臍の据え時と思って、平気な風をして、
あなた等大きな声でなんですねえ、と懐手で澄ましていると、
浪人はどこへ逃げたかなとブツブツ怒りながら、
私には何もせず行き過ぎてしまいました。
私はホッと安心し、三・四丁行きますと、町の角で龍馬が
立ち留まって待っていてくれましたかね、あなた私を置き去りにして
あんまり水臭いじゃありませんかというと、いんにゃあそういう訳
じゃないが、彼奴等に引っ掛かるとどうせ刀を抜かねば済まぬから、
それが面倒で隠れたのだ。お前もこれくらいの事は平生から
心得ておるだろう、と言いました。

(『千里の駒後日譚拾遺』)


同月二十一日、幕府新選組廻番、昼夜厳重人別を改む。

(『三好慎蔵日記』)


坂本は長崎に着するや、「ワイルウェフ一号難破後の
始末をなし、遭難溺死者のために、塩屋崎海浜に地を卜しつ、
船将黒木以下の姓名を刻して「溺死合霊之墓」と題せる石碑を
建て、弔慰の法会を設くる事とし、同十四日、
再び桜島丸に搭じて馬関に航し来り。

(『維新土佐勤王史』)


1…望月亀弥太のこと。
2…去年六月、、と書かれているので池田屋事変の事だと思われる。
※3…娘とはお龍のこと。
※4…これは、お龍から見たこと。


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