エピローグ

     「あ、飛行機雲。」
      左手をかざして、真崎は空を見上げた。まっ青な空に白い、二本の直線が引かれるのを、
     彼女は目で追い、眺めている。白線の末尾が伸び、先端が薄れて青に溶ける。そして、ま
     た末尾が伸びて、先端が消えていく……その様子を見ながら、彼女はクスッと笑った。そ
     の横から、彼女の笑い声に合わせるかの様に声がかかる。
     「飛行機雲なんて見てて、楽しいのか?」
     「うん。」
      真崎は振り向かず、その場で頷いた。代わりに、吹いてきたそよ風が彼女の髪を声の主
     の方へとなびかせる。それを追うようにして、彼女が珍しくはいているスカートも、カーテン
     の様に緩やかに揺れる。
      秋も酣というのに、今日はやけに暖かいと、真崎は飛行機雲に向けている双眸をそのま
     まにして思った。暖かいというより、むしろ暑いかもしれない。今度は視線をそのまま真下
     ――彼女のいる土手から見える、小さな河原へと落とした。ガードレールに腰を掛け、こん
     なに暑いからスカートなんてはく気になったのかな、と首を傾げて、胸中で自問してみる。
     「そういや……かんちゃんも飛行機雲、好きだったんだよね。」
     「……え?」
      真崎はそう言ってはじめて、隣りに立っている男――西村の方を振り向いた。
      彼もまた暑いせいか、半袖のポロシャツ一枚という格好だったが、今日はコンタクトでは
     なく、愛用の眼鏡をかけている。
     「かんちゃんのお父さんも。飛行機雲見てるとね、何だか懐かしい気分になるんだって…
     …。」
     「……真崎も、そうなのか?」
     「別にそういうわけじゃないけど……でも、今はそうかもしれない。あの飛行機雲を見てる
     と、そんな気分になっちゃった。」
     「司の事か?」
     「……うん。」
      彼女はそう頷いて、さっきまでかざしていた左手を、はらんだ腹へと――視線と一緒に
     ――持っていく。そして、瞼を閉じ、その手で腹を優しく愛撫する。西村は彼女に一歩歩み
     寄り、彼も視線を彼女の腹へと静かに落とした。
     「早いよな、時間が経つのって。五カ月……いや、六カ月だったっけか?」
     「……うん。」
      目を開けて、真崎は西村の顔を一瞥した。そしてまた腹へと、視線を戻す。
     「あいつの忘れ形見か……そんな気は、ちっともしないんだけどな。」
     「…………?」
      怪訝に思って、真崎はまた西村の顔を見た。彼は真崎の顔を一瞥してから小さく苦笑い
     をして、
     「いやな、その……まだはっきりと実感がないんだよ。あいつが死んだっていうな。何でな
     のかは……よく分からないんだけど。」
     「……そんなものだよ、人の死って。」
     「……え?」
      今度は西村が、真崎の方を向いた。彼女は自分の腹を撫でながら、
     「かんちゃんのお父さんがね、そう言ってたんだ。何だか、今でもいつかひょっこり帰ってき
     そうな気がするって、毎日かんちゃんの部屋を掃除してるんだって。そんな事してもかんち
     ゃんは帰ってこないって分かりきってるはずなのに何故だろうって、そう言ってた。」
     「……………………。」
      真崎の口調は、最後まで和らげだった。そして、どこか颯爽としていた。そんな彼女の姿
     を、しかし西村はその様には見なかった。あるいは見る事ができなかったのかもしれない。
     その理由は、西村自身がよく知っていた。神薙の親友だった彼が。そして今、真崎に一番
     近くにいる彼が。
      二人のいる空間は、いつの間にか沈黙の二文字が広がっていた。ただ、時々川の水面
     から顔を出す魚のたてる、ほんの小さな水しぶきが、二人の間に小さく響いて聞こえる。
      しばらく、いや、かなり長く続いた沈黙を破ったのは、真崎であり、また西村でもあった。
     同時に言葉を発し、同時に口ごもった。「あ、いいよ」とか、「いや、そちらから」だのと、互い
     に親しいはずの二人は、急によそよそしい雰囲気に包まれてしまった。
      だが、その雰囲気はもちろん、二人の、互いの親しさからきているという事は、二人とも熟
     知していた。その理由も当然分かっていた。けれど、それは口にはできない事だった。もし、
     言ってしまえば――
     「……さっくん。」
     「…………何?」
     「……いや、何でもない。さっくんから言って。」
     「あ、ああ。」
      まさか自分に振られるとは思ってなかったらしい。真崎が先に口を開いて、正直安堵して
     いた西村は、彼女の言葉に焦ってしまった。
     「え……と、その、元気に生まれるといいな、赤ん坊。」
     「……うん。」
      まず、妥当な話だろう。そう思いながら、西村は少しづつ落ち着いてきた。
     「それで、名前は決めているのか?」
     「うん。」
      真崎の即答に、西村は少なからず驚愕した。
     「男の子は優司。女の子は風奈っていうの。かんちゃんと二人で決めたんだ。」
     「へぇ、あいつとね。なるほど、司と奈瀬から一文字づつ取ったのか、いい名前だな。」
     「ありがと。」
     「そうか、あいつと決めたんなら、男と女の双子が生まれてくれればいいのにな。そしたら、
     二人にあいつの名前が付けられる。」
     「……実は、そうなんだ。」
     「え?」
      西村は最初、真崎の言った事の意味が分からなかった。目をしろくろさせている彼に、真
     崎は薄く笑って、
     「病院に行ったらね、言われたんだ……男の子と女の子の、双子だって。それ聞いて、驚い
     ちゃった。ひょっとしたら、かんちゃんは何となくこの事分かってたんじゃないかって。そして、
     もう――死んじゃうって事も。」
     「……………………。」
     「嫌だよね、死ぬって分かってるんだったら、そうしなきゃいいのに。でも、いいんだ。かんち
     ゃんは、人生の最後で自分に正直になってくれたから。ちゃんと――告白してくれたから。」
     「……………………。」
      西村は、もう耐えられなかった。真崎に今すぐ、話すのをやめさせたかった。彼は、彼女の
     話に耐えられないのではない。このままだと真崎が壊れてしまいそうな気がした。それに耐
     えられないのだ。暴走して、悲痛という壁に直撃してしまえば、受けた傷は治せても傷跡は
     残ってしまう。西村は、手で真崎を制しようとした。しかし、彼女はもう口を開き始めている。
     もう、間に合わない――
     「だから……頑張るんだ。かんちゃんの分も。しっかり生きなきゃ。この子達のお母さんとし
     て、わたしがしっかり生きなきゃ。」
      今度こそ。西村の双眸には、真崎の姿がはっきりと、颯爽として見えた。
      彼女は強かった。自分が思っている以上に。あるいは――自分以上に。
      真崎はその場に立ち上がった。彼女は、何かふっきれた様に笑っていた。その姿に西村
     は驚愕し、圧倒された。
     「真崎……。」
      西村は口を開いたつもりはなかった。彼女の名を口にしている自分が、気が付くと目の前
     に立っていた。聞こえないはずの自分の名に、真崎はまるで応えるかの様に、双眸だけを
     ゆっくりと、西村に向けた。
     「それでも……自分の子供達を好きな男性(ひと)と一緒に育てられないってのは、やっぱり
     ……嫌だよね。」
      そう言って彼女は、微笑みながら、神薙が逝って最初で、そして最後の涙を流した。
 
      狭い診察室の中に、空から鳴る小さな衝撃音がこだましている。うちの上を飛行機が飛ん
     でいるのか、と医者は視線だけを上げて天井にその飛行機を重ねて見た。
     ――はい、終わりましたよ。ではお大事に。」
      そう言って、医者――中川は、中年女性の患者をその場で見送った。その日最後の患者
     である彼女は、静かにただペコッと一つおじぎをして、急ぐ様にしてその場を去っていく。
      中川医院はもともと、にぎやかな(と言っては変だが)所ではなかったが、この頃さらに静
     まり返ってしまっていた。別に以前と変わった事はないのだが、どこかすきま風が吹いてい
     る様な気がする。常連の患者達は以前に比べ、口を閉ざす様になってしまった。まるで何か
     遠慮しているかの様に。それは大体半年前くらいからだったか、と中川は記憶していた。
     「……フゥ。」
      中川は、一つ溜息をついて背もたれに後ろを預けた。同時に窓から空を見る。澄み切った、
     綺麗な青空だ。つい小一時間ほど前にここを出た真崎という娘は、西村と一緒に散歩に行
     くとか言っていた。こんなにいい天気なら、俺も行けばよかったかな、と思い――彼は胸中
     で自嘲した。いくらそうしたくとも、やはり仕事を投げ出すわけにはいかない。こんな小さな町
     の、ほんの小数の人間の、大した事のない病気を治すという、些細な仕事でもだ。どんな病
     であれ、患者にとって医者は、絶対必要的な存在なのである。
     (そう……それが、どんな病であってもだ。)
      彼は胸中で独白した。
     (医者は患者のために、全力を尽くさなければならない……)
      そして彼は、自分の手を見つめた。今まで、数々の患者を治してきた手を。数々の病を倒
     してきた歴戦の手を。数の割には、たかが知れた病しか相手にしてない手を。それなのに、
     やたらごつごつして博識ぶった手を。
     (あいつの手は、まだ一勝しかしていない……。)
      古くさい、自分の手を握りしめて彼はまた、視線を窓の向こうに移した。
     (だが、大きな一勝だ……それも初陣だ。それを知らせにきっと帰ってくる。あいつは。)
      半年前、匿名で公開されたキャッドの治療法により、難病は嘘の様に世界から消え去っ
     た。だが、彼は知っている。それを見いた人間が、一体誰であるか――
      彼は目を閉じた。その暗闇の中で、現実を直視している自分と、どこかそれから逃避して
     いて、息子の帰りを待っている自分が、ダブって見えた。それを見ながら彼は確信する。自
     分はそのどちらでもないと。そして――しかしどちらでもあると。
      彼は目を開き、立ち上がった。窓の側へ行き、それを開いた。明るい日差しが顔を差し、
     その後で気持ちいいそよ風が頬を撫でていく。
      見上げると空には、二本の飛行機雲が泳いでいた。大分薄れてきているが、それでも空
     の青さが雲の白さを引き出している。
     (もし、あいつが帰ってきたなら……)
      その時は、久しぶりに二人で散歩でもして、草むらに寝っ転がって飛行機雲でも眺めよう、
     中川は素直にそう思った。父親でもあり、医者でもある彼の姿のままで。
     (もし、帰ってきたなら……)
      その時に見る飛行機雲は、さぞ気持ちいいだろう。
      そよ風に吹かれて。草むらに身を預けて。
      青空に抱かれて。
 
                              青空に抱かれて・完 

 
 
 



 
 
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