先生の講義中に聞いた話です。数学や物理、あるいは理系と呼ばれる教科で目指しているものはなにか?と聞かれたらどう答えられるでしょうか?数学とは何か?もよく分かっていないので偉そうなことはいえませんが、まぁその教科の目標の一つに本質を明らかにすることというのがあると思います。一見、ばらばらに見えること(例えばさまざまな自然現象)が実は何かの一つの概念(あるいは法則)で説明できたりするのなら、これほどすばらしいことはないではありませんか!そして、もしその法則で自然界の現象をあらかじめ予言することができるのならこれほどすばらしいことはありません。
わずかな証拠や断片的にしか見えてこない現象から推測し、悩み、実験しようやく本質たる法則へとたどりつくわけです。下手な推理小説よりもよっぽど面白いです。さて、この本質を見出すための一つの手段に、見方を変えてみるというものがあります。そして、いろいろな見方をもってして変わらないこと、これが本質だろうというわけです。
「いろいろな見方をしても変わらないものを見出すこと」これが理系の目標ならば、ある人は言うわけです。「理系は本質を見出しているんだ。文系みたいに、それぞれの見方(言語)の中でごちゃごちゃしてはいない」と。
これに対して、ある人はこういうかもしれません。「なんだと!理系こそ、本質にこだわって正解という一つの殻のなかにこだわりつづける見方の狭い学問ではないか。なぜ、答えは一つでなくてはならないんだ」と。
先生は、「どっちも誤解」だとおっしゃって、理系の主張の反論として次のものを出しました。
徒然草、いわずと知れた古典です。その中に、「世の中は定めなきこそいみじけれ」という言葉があります。日本人はこれに共感して、「あぁそうだ」と思うわけです。ところで、徒然草には英語訳もあるそうで、次のようになります。「The most delicious thing in life is uncertainty.」(直訳すれば、世の中で最もすばらしいのは不確定性である。量子力学者が飛んで喜びそうだといってましたが…)これでは、どうも無常観みたいな感覚がしっくりこないわけです。これは、言語という座標系(ひとつの見方)がそれぞれの文化を反映して(あるいは逆もあるかもしれません)歪んでいるからではないか?もし、歪んでいるのではなかったとしたら、単語と文法を対応させれば完璧な訳があるはずですが、訳は幾通りもあるわけですから。そして、その(いい意味での)歪みを研究するのが、言語(文系の代表?)の研究なのではないか?と。だとすると、これに関する研究は非常に意味のある、そして興味深いものとなってくるでしょう。
私は、文系の考え方や話を聞いていると興味を覚えることが多いです。でも、残念なことに私の文系の友達(ごく一部を除いて)数学と聞いた自体で拒否反応を示してしまう人がほとんどです。文系のみなさん、数学は自然を観賞するぐらい普通の感性で楽しめるものですよ。と呼びかけたいですね。(まぁ。このページを見ているということは、数学に抵抗のない方々だと思いますが…。苦笑)